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   こども時代  
 

こどものころ、私の遊び場所は、特別な場所がありました。近所の公園や学校の校庭だけでなく、ハンマー投のオリンピック選手だった父が練習をする大学のグラウンドです。大学のグラウンドで、自由に遊び、スポーツに関する専門的な器具に触れることができました。私にとってとても身近な場所、そして、その後のアスリート人生に大きな影響を与えることになります。

 

 

   アスリート時代(1989~2012年)  
 

私のアスリート活動は、中学生の部活動で陸上部に入ったところから始まります。100m走や走高跳、砲丸投などに挑戦しました。高校に進学するとともに、円盤投に転向。高校時代は大会で失敗することが多くありました。

大学生になり、実力を本番で発揮できる成長していきます。円盤投は全日本インカレ4連覇、日本ジュニア記録、日本学生記録を樹立します(2016年8月現在)。実業団選手となった1999年に、念願の日本記録を樹立しました。ハンマー投に本格的に挑戦し始めたのはこのシーズンからでした。大きなきっかけは、2000年シドニーオリンピックから女子ハンマー投が正式種目として採用される発表があったことです。
円盤投を極めたいと思いつつ、いつかハンマー投にも挑戦したいという気持ちが心のどこかにありました。その決意が固まったのが、大学4年生のシーズン終了後の秋、21歳のことでした。なによりも、父がハンマー投選手だったことが最も大きな影響でした。

21歳で新しい競技をスタートし、2つの異なる競技でオリンピックや世界選手権などの国際大会を目指しました。とても難しく、そして厳しい挑戦の始まりでした。ハンマー投を本格的に始めて5年半。実力が実ります。ハンマー投で日本記録を樹立、2004年アテネオリンピックに女子ハンマー投で出場。世界選手権には2005年はハンマー投、2007年には円盤投で出場し、2種目で出場を果たしました。

しかし、順調な事ばかりではありませんでした。2004年アテネオリンピックに出場した翌年以降、引退する2012年までの間、私は身体的なコンディションにおいて、非常に困難な状況に陥ります。原因が特定できない急性・慢性の腰痛症や、婦人科疾患、利き手である右肩の神経障害にも悩まされました。特に、腰痛は解決の兆しが見えない状況が続きましたが、「この痛みさえ取れれば!」と、諦めずに挑戦を続けました。長く辛い時間を過ごしましたが、引退をする前年、2011年に腰痛の原因が明らかになります。腰部脊柱管狭窄症でした。引退に当たり手術を受けることを決意し、根治に至りました。

スポーツ障害や婦人科疾患などの経験について、実際に直面した体験的事例を多くの方と知識共有しています。アスリートや周囲でサポートする方々にとって、スポーツ環境がより開かれていくよう、専門医と共に地道な啓蒙・啓発の活動を行っています。スポーツ現場と医学の関わりを繋ぐために、貢献の一助として発信を続けていきたいと思います。

 
 
 
 
   2012年競技引退〜現在  
 

24年間のアスリート人生では、スポーツを通した心技体の鍛錬から、多くの事を学びました。とくに、メンタルタフネス(心理的な強さ)を身につける事や、自身をマネジメントし、コンディショニングする術を身につける事は、スポーツ以外にも通じると感じられました。そして、長い間一つの事を突き詰めてきた自分から、「広がり」を求める時分に変化をしていきました。広がりを自ら求め、行動をした時、多くの方との交流が生まれます。その輪が広がっていく楽しさ、常に新しい自分を探す楽しさを持ち、様々なジャンルの事にチャレンジをし続けています。